≪ C A U T I O N ≫

・現時点で存在しない筈の使役が通常運転になっている『未来』

・崩壊してはならぬ世界結界が完全崩壊した、物語の時間軸から3年後の『未来』

・とある人間が微妙に狂気の狭間を揺蕩っていると思しき言動に走る





……以上、自己責任に於いて御覧下さい。



























































何処でもいい、と口を動かしたのは覚えている。
それを声にしていたかどうかは分からない。

その時一番近かったベッドに腰を下ろしたはいいが、
あっという間に真っ暗になっていく意識に抗う事も身体を支えている事も出来なくて。

皆の声が遠くなる。
視界が闇色に溶ける。
指先の感覚が失せていく。

――ぷつり、と全てが無の一語に。



廃墟。

無惨に破壊され尽くした市街地。

意識が戻った時、俺の周囲は見事に瓦礫だらけだった。
そして自分自身に目を向けるといつの間にか濃藍の装束姿で。
手にしていたのは那由他の一振りのみ。
……いや、那由他にしては鞘が――刃渡りが相当長い。
それに黒鞘ではなく、淡い銀青の地に白と銀の雪晶が埋め込んである綺麗な鞘。
何より鞘の部分にまで回転動力路がずらりと並んでいる。
戒禮のように鞘ごと展開可能な燕刃刀なのだろうか。
……そうでないと、この長さじゃまず鞘から刀を抜く事すら難しそうだが。

それにしても。
何処なんだろうか、此処は。
禍津列車事件解決後に意識を手放したのは覚えているから、
多分夢や非現実との狭間にいるのだろうとは、思う。
昨年の矧修羅場終結時は(漸く冷静に回顧出来るようにはなったが)亡き怜との邂逅だったけれど、
今度は一体何に引き寄せられたんだろう……。

見上げた空は鈍い灰色の曇り空。
宙を行く鳥一匹無く、地を行く猫や犬の姿も無い。
瓦礫が崩れているのか、遠くから響き伝わる低い轟きと微かな振動。
……本当に、何も無い世界。
何もかもが奪われたような世界。

溜め息ひとつ。

――刹那、周囲が影に染まった。


反射的に展開した鞘と刃の大群が銘々に舞う。
背後には狼とも熊とも猿ともつかぬ奇怪で巨大な異形。
血塗られた鉤爪をすんでの所で避け、数多の燕刀を異形――多分、禍津だ――へと差し向ける。
無数の刃傷を刻まれた大禍津は、しかし耳を引き裂くような咆哮を衝撃波に変え返礼と為す。
咄嗟に身を庇う体勢を取ったが、それでも全身を滅多打ちにされるかのような容赦無き激痛に苛まれ。
ぐらり、足元が揺れる錯覚。
……違う、揺れているのは俺自身の足。
痛みに、耐えられずに。
真っ向から相対するには……相手が余りにも強過ぎる。
けれど退く一瞬の隙すら見当たらない。

血の霧混じる息を吐く。
ぎり、と歯を食い縛る音が耳の奥で響く。
たった一瞬でも隙を見せてしまえば、何もかも終わる。

「――眉間を狙え! 弱点は其処だ!」

考える暇も疑う暇も無かった。
場に放たれた言葉通り燕刃の軌道を変え大禍津の眉間へと集中させる。
……操る燕刃が多過ぎて眉間どころか顔面集中攻撃としか言い様が無い状況になったが、確かに手応えがあった。
何よりあの反撃が来ない。戦意までも砕く衝撃波が。

「上々! ――此処で仕止める!!」

その声で初めて、声の主が俺の背後にいた事が分かった。
何処かで聞いた事がある筈の、声。
地を蹴る音が聞こえたと思ったその時にはもう、苦しみもがく大禍津の頭部に、白い人影。
その手に携えた細身の刃のみ、漆黒の。
何の躊躇いも気負いも無く淡々と突き刺された刃。
だが一瞬の後に響く、骨を肉を一瞬で粉微塵に変える威力を示すに充分過ぎる轟音。
……それが空気に溶け消えるよりも早く、大禍津は驚く程に呆気無く霧散した。


軽く乾いた音を立てて地へと降り立つ真白の細い人影。
首の後ろで一つに纏めてもまだ腰を越える長さの、黒味が強い焦茶髪。
一瞬女性かとも思ったが、真白一色の装束の作りを見る限り男性のようで。

「ひとりとは無茶をするね。手達れのようだけど仲間は――」

――いないのかい、と続く筈だったろう言葉は呑み込まれ。

癖の無い髪。
漆黒というよりは万色混在の黒だろう色の瞳。
俺より年上だろう筈なのに同じ位にも見えてしまう、幼さが未だ紛れ込む顔立ち。
……でも、何よりも。

「……“悪夢”を見ているのはどちらなんだろうね。君なのか、それとも俺なのか……多分、君かな」

ほんの少し驚いた表情を浮かべた後、目を伏せて相手が笑う。
『俺から見ても』、儚さばかりが滲む笑み。
……『俺が』誰かに向けた表情の中にも同じものはあったんだろうか。

「――ようこそ、と言ってしまおうか。君にとっては多分“一番想像したくもない未来”へ、ね」

微塵もぶれずに言い当てられた。
一番想像したくもない未来――世界結界崩壊後の世界。
何より、そう俺に告げて手を差し伸べた相手は――



19歳だと言った。『俺よりも』3歳年上。
一応大学に籍はあるがこの現状では殆ど意味を為しやしないそうだ。
銀誓館学園にいたのも1年かそこらだとか。
IGCを手にする為だけの編入でしかなかったからと。
だがそれも結局、殆ど意味が無くなった、とも。

確かに世界結界が崩壊したならば、異能を封じるIGCなど意味を為しやしないだろう。
異能という名の武器無くば禍津に殺されるだけの世界で封じる暇など、一瞬たりともありはしない筈で。
忘却期に形成された常識は、非常識が常の時の中では廃墟の代わりすら出来ない。
……まだ廃墟の方が役に立つだろうさ。

宗主を継いだのは去年。
禍津が大規模に蹂躙してくれたお陰で多数の重鎮が命を奪われ、継承権を持っていた人間も殆ど同じ末路を辿り。
その末に生存者を見渡した時……一番“何とかなりそうな”人間が自分しかいないという笑うしかない状況。
むしろ指示系統の崩壊を食い止める為に自分から動くしか道が無かったと言った方が正しいかもしれない、と。

――さらりと語られた顛末に一瞬心臓が止まる錯覚。
つまりこの世界にはもう……宗主たるお祖父ちゃんも筆頭候補の母さんもいない。
他の継承者も軒並み亡くなったが故に普通では継承出来る筈の無い暁降が宗主となるしかなかった……か。
(但し、『俺も』この未来が来たら強制継承だと紫苑さんに告げられてはいるが)
……ふと思い至った幾つかの問いを、相手に投げかけた。

まず一真や篤輝、結ちゃん千奈ちゃん達の事を聞いたが誰も知らないと首を振った。
いや幼稚園時代から一緒だっただろう、と驚いて問うも首を振り。
ならば理紗さんは知る筈も無いか。縁の糸が結ばれたのは何より一真がいたからだ。

矧の指示系統は半ばズタズタではあるが、現状ではとりあえず情報集約に不都合は無いという。
宍矧の首座たる槐さんは――既に亡い『俺のいる世界』とは違い――去年まで存命だったらしい。
だが新しい首座を立てられる状況ではなく、何人もの候補者が手分けして支えているとか。
属する筈の茅都先輩や夏来、典杏の事を聞いたが全く知らないという。
『夜の矧』も一時的に元の矧の属に戻って補助に徹している、と。……確かにこの世界じゃ監視の意味も薄いか。
納曾利頭領の久人さんは分かるが、苑夜ちゃんの存在は聞いた事も無いという返答。
それを聞いた時、もしかしたら此方の苑夜ちゃんは未だ飯嶋なのかもしれないと、確信のない想像が浮かんだ。
尭矧はそれぞれ居を構える地域を防衛しているが状況は余り芳しくないそうだ。
……彩晴の事を聞いて驚いた。『俺の知る』彼と全然違う。
笑った所を一度も見た事が無い、と。
冗談も煽りも無謀癖を疑う言動も、望遠鏡を弄る姿も。
西寄りの訛り込みで俗に浜言葉と呼ばれる一種独特な――荒さも緩やかさも混在する――言葉遣いさえも。
眼鏡姿で恐ろしい程に没個性の標準語を操る姿しか、見た事が無い、と。
……想像してぞっとした。別人とか言うレベルじゃない。
一瞬身震いする程の寒気を感じたがその反応に怪訝そうな表情をされた。
なのでありったけ『此方側』の彼の偉業(……奇行でも正しいと俺は断言する)を暴露したら目を点にして――

「……心底羨ましいよ。そんな存在、周りにいなかった」

――羨ましがられた。
仮装と聞いて完璧な女装に走り博打な回復アビを使いこなし心配の種を量産する『俺の世界の』従弟の存在が、羨ましい?
……でも、本当に、そうなのだろう。
話を聞けば聞くほど、相手の周りには誰もいないんだ。
誰も、彼も。

……誰も?

一番気になっていた事。
――月主の俺と対たるべき陽主は……はたは?

「……遂に骸揃わぬまま既に弔って久しいと、言ったら?」

……紛れも無く真実、なのだろう。
姉絡みの嘘など、ほんの一欠片も吐く筈が、無い。
本当に……目の前の存在は、たったひとりで。



「――そういえば、巻いていて苦しくないの?」

相手が俺の首元を指差した。
無二の御守り代わりで他でも無いはたから貰った物だから外す事は滅多に無い、と答えた。
すると、貰ったのはいつなのか尋ねられて。
銀誓館に編入した小6の冬だからもう4年も前だと返すと、表情が微かに強張ったような気がした。
……一瞬の間の後に、今度は二重の銀が煌めく左の手首を指差して問われ。
学園生活の間に縁が結ばれた先輩達にそれぞれ戴いたと答え、ふと思いついて懐を探った。
――懐中時計、銀燕、多種なストラップ、手袋、ピンバッジ、音小箱……何でこんなに今持ってるんだ、俺。
流石に大きな物は出てこなかったが、掌に収まる位の大事な宝物ばかり幾つも、幾つも。
何故懐から出てきたのか理解が追い付かないという表情の相手に全て大事な戴き物だと、言った。

「……君の居る道は、まだ……無限の上なんだね……」

――俺の足下にはもう消えかけのたった1本の道しか無い。

そう、相手は言った。

……名前の、事だ。
逆さ名としての『いちる(一縷)』。真の願いは『無限』。
目の前の相手はもう、願い祈り籠めた名を永遠に逆さに出来ない所まで来てしまったのか。
誰も彼も無く、たったひとりで後戻りの出来ない道へと。

もし、俺が。
一真達に出逢い喧しい日々を過ごす事が無ければ。
小6の冬に鎌倉へ、銀誓館へ行かなければ。
……相手が進んだ道を、そのままなぞり歩いていたのだろうか。


矧の他に知る能力者はいるのか、と聞いてみた。
すると、所属は知らないがこの周辺の禍津を重点的に狩っているらしき面々を見る事もある、と。
大体自分と同じ位か年下、時折年上も混ざっているらしい。
……語られる面々の羅列に、ふと引っ掛かる単語。

「シャーマンズゴーストなのは間違いないが、あんなエジプトを彷彿とするような個体は見た事が無い」

エジプト風マンゴー……ファラオか?

「使役が目立つだけでなく、主の方ものんびりした口調で喋るから余計印象に残っているのだけどね」

……緩やか口調の使役主……?
まさか、と早鐘になる鼓動を必死に抑え込んで尋ねた。
その使役主の、瞳の色を。
もし聞いていれば周囲から、何と呼ばれていたかを。

「瞳は茶と緑の中間かな、珍しい色味だね。……確か、ナルとかリョウとか呼ばれていた筈だ」

――怜と、くなぎ――!?

そうか、この未来では……生きてる、のか。
俺と出逢う事も無かった代わりに、死ぬ事も無かった。
そして、ファラオのくなぎと一緒に居られる強さを得て。
……そういえば、相手の左足首に傷は無かったっけ。



風の向きが変わった。
砂埃を巻き上げ吹き下ろす風に紛れ込む血の匂い。

「今日は早いな。――君はもう君の世界に戻りなさい」

表情から幼さも儚さも穏やかさも瞬く間に掻き消えた相手が言う。
この風が吹いた後、必ず禍津の群れが此処を襲うから、と。
微々たる力でも手伝うと返すも、相手は首を振る。

「これは俺の歩くべき道。例えこの先が奈落の常闇でも」

――まだ無限の道が叶う君にこの道の先を見せるわけにはいかない、と。
そう言い切った相手の瞳に滲むのはただ凄絶の一語。
宿す光はまるで恐ろしく冷ややかに青白く揺らめく、超高温の炎。
……炎にくべる薪と為すは覚悟か、まさか狂気か。

「……だけど、その刀は君が持っていて」

未だ俺の手の中にあった、銀雪舞う淡青鞘の燕刃刀。
それに気付いて返そうと差し出したが、手で制された。

「俺には鞘の欠片一つ、刃の欠片一つ操る事も出来ない無用の長物――だから、君に託すよ」

……操れ、ない……!?
まさか水練忍者ではないのかと問えば、水練だと答え。
だったら操れない筈が無い、燕刃刀を振るうは水練のみの特権だと言い返すと、薄く儚げな笑みを返し。

「……きっと、俺の中の禁忌を犯したから……かな」

禁忌?

「……越えてはならぬ一線を、越えてしまったから」

一線?

「――刀の銘は、リッカ――さあ、“戻りなさい”」

その一声と共に、俺の周囲に巻き起こる水霧の嵐。
四方から絡み付いた水霧が瞬く間に身体の自由を奪い相手から引き剥がしていく。
……それでも抗い、手を伸ばす。
禁忌とは何なのか。
操り得る武器を操れなくなる程の禁忌とは、と。

「――君にとって“死”は終わり? それとも続き?」

続く筈が無い。
死んでしまえば……それで終わり。
悔やもうとも悲しかろうとも、終わりでしかない。
尽きた命は黄泉還りなどしないのだから。
例え失いたくない大事な存在だろうと、それだけは、翻らない。
……そう返すと、相手は目を伏せた。

「……俺は翻してしまったんだよ。死した存在を己がエゴで此の世に縛り付けてしまったのさ」

相手の背後に生まれた黒い影。
人の形をした、黒衣を纏う影。
……いや、“人”じゃない。

人の背に翼は無い。
何より、その人影は骨の身体、骨の頭蓋、骨の手足。
存在感を誇示する骨と羽と膜とが入り交じった翼。
……スケルトン!?
でも、こんな禍々しい形態など一度も見た事が無い!
言葉を失った俺に、相手が問う。
凄絶さと狂気と正気と儚さとがごちゃまぜになった瞳で。


「――“誰”、“だった”と、思う?」


ぷつり、と。
――再び全てが無の一語に。




――頬に触れる小さな手。
目を開けると、すぐ傍に俺を見下ろす小さな人影がいた。
俺と同じ濃藍の装束姿、首に下がる円い鏡。
……いや、同じも何も……紛う事無く過去の、俺だ。
雪が音も無く降り続き積もる空間に横たわる俺と、傍に正座して俺の頬に触れている過去の俺。
数少ない抑圧前の写真に写るのと同じく、感情の色が薄い表情。
……ふと、ひとつ瞬きしてかすかに首を傾げる仕草。

「……振り返るのも、時々は、必要。立ち止まるのも、後戻りするのも」

色に乏しい、静かな声。
子供のように聞こえないと散々陰口をぶちまけてくれた重鎮共でなくとも、確かに子供らしくないと感じる話し方。

「……戻らないから深みに落ちて沈んでしまう。数歩戻れば、見えていた筈でも」

囁きのようで、しかし耳にはっきり届く声。

「……貴方を引き戻してくれる人がいつも隣にいるとは限らないのに、それでも立ち止まってはくれないの?」

淡々と。
至極淡々と。

「……“俺は貴方の傍に居たいのに”、最期まで連れて行ってはくれないの? 命を預けてはくれないの……?」

……最期、まで?
いや、待って。もしかして、この小さな俺は……。

『――“六花(リッカ)”?』

見開かれた彼の瞳が、瞬くうちに透き通るような銀青に染まる。
……頭に浮かんだだけで声に出した筈が無いのに、彼には届いてしまったらしい。

『……俺は君の本当の持ち主じゃないよ。いや、もしかしたら持ち主になりうるかもしれない、なのかな……』

緩やかに静かに、ひとつずつ言葉を頭の中で紡ぎ織る。
……悪夢に縊られかけた首が、喉が今更になって熱を持ち脈打つ痛みを主張し始めて。
この状態じゃ喋りたくとも声にしたくとも……風の音にしかならない。
ただでさえ非現実にいる今の俺は、付けたままのチョーカーで首を不必要に圧迫し続けているようなもので。
感情を言葉に組み上げるだけで彼に届くのならば、今はその方が遙かに楽で、遙かに素直に。

『……立ち止まる方が、振り返る方が、進むよりも、怖い……多分あの人は、そうだったのかもしれない』

……いや。あの人“は”、ではなく、あの人“も”。

『世界の中に、自分がいないから、何処を通ってどう進んできたかも、分からない。だから、進む方がまだ、怖くない』

立ち止まっても振り返っても、後ろに自分自身の足跡が見えない。
一体何が成功で何が失敗だったかも分からない。
何よりまず自分自身が何処にいて何方を向いているのかも分からない。
……だから、ただ進むしか、なくて。

「――あなたも、そうなの?」
『……まあ俺の場合、今は寧ろ立ち止まるのも進むのも怖いと言ったら蹴られるか? それとも笑うか?』

……実際問題そうなのだから性質が悪い。
その先に踏み込んでいいのかも今の俺には分からないんだから。
本当に救い様が無い俺の『返答』にきょとん、とした表情になった小さな俺――六花。
だが次の瞬間――ぽろぽろと涙をこぼして泣き出した。
その様に驚いて跳ね起きるも衝撃で一瞬呼吸が止まり咳き込んでしまったが、何とか堪えて。
……自分で自分の(厳密には外見だけだが)泣く様を見るとか余りにもばつが悪過ぎる。
でも……どう言葉を向ければいいのか分からない。
何故泣き出したのかさえも、分からないのに。

「……良かっ、た」

泣きじゃくりながらの六花が発した声。

「……あなたの目の前には、ちゃんと、“誰か”がいるんだね」

――!?

「……進む事を躊躇える“誰か”がいるなら、その先の深みも、見えるでしょう……?」

……そう、か。
例え立ち止まる事が怖かろうと、その先が踏み出せないなら、必ず足は止まる。
その一瞬か、一時か、だがそれでも確かに……進んではいけないかもしれないその先が、見渡せる。
だから、六花からすれば俺は、あの人とは、違う、と。
命の始まりは、同じでも。
でも……どうして、“誰か”?

『どうして“誰か”なんだ? “何か”でも変わらないだろ?』
「……“何か”では進んでしまうでしょう? “何か”は、何かでしかないのだから」

未だ溢れる涙止まらぬままの六花が問い返す。

濡れた銀青の中に写るのは、頬に滴が幾つも伝い落ちていく、呆然とした表情の――。



「……何時か、でいいから。何時か“俺を必要として”」

傍に居たかったあの人にはもう声が届かない。
でも、異なる未来なら、何時か。

「――必ず、迎えに行く。だから、もう少し待っていて」

激痛に苛まれ音にならぬ筈の想いが、声に。
その一言だけは、掠れる事も掻き消える事も遂に無く。

色彩に乏しい六花の表情が綻ぶ。
子供らしさは未だ薄いものの漸く笑って、手を伸ばす。
反射的に差し出した俺の手に縋る彼を抱き留める。
その姿がぼやけ霞み……託されたあの燕刃刀に変わった。
――銘は、“六花”。


いつか俺が進む事も立ち止まり振り返る事も躊躇わぬようになった時。

全く別の未来を進む事が出来た時。

その時が来たら、必ず――





「――ええ加減目ぇ覚ませ今何時や思とん!?」

……ごつっ、という鈍い音。
遅れて感じる額の鈍痛。

「……人の頭蓋骨割る心算かこの馬鹿彩晴」
「阿呆はそっちじゃ今何時やと思とんぞね8時やぞ8時」
「正確にはその15分前だが……その前にどうして互いに罵倒の単語が違うんだ」
「西生まれの人間に阿呆じゃ効果薄いですから」
「東の相手にゃ馬鹿よりも阿呆のが貶すに最適」

溜め息混じりの渕埼先輩の問いに、ほぼ同時に返す俺と彩晴。

その後、朝飯前に風呂行って来やれとバスタオル他一式を投げ付けられ追い立てられた。
バスルームの鏡に映る俺の首筋には――何も無い。
昨日詠唱武器の刃にあれだけはっきりと映り込んでいた首筋の青黒い痣は何処にも無かった。
ほんの少し目が赤い事を除けば、チョーカーを手首に付け替えている事を除けば、
何処も普段何気無く眺めている姿と変わりが無い、鏡の中の俺。

眉間や目の端の傷痕も無く。
癖の無い髪を長く伸ばしている訳でも無く。
表情も……無いわけでは、なく。
摂理を禁忌を捩じ曲げてまで傍に留め置いた誰かが寄り添う訳でも無く。

手首からチョーカーを外し、首へと戻す。
ベルトを通して留金を掛けた後、一度静かに瞼を閉じる。

「――さあ。今、此処にいる俺は、“誰”?」

静かに、ゆっくりと瞼を開く。

鏡に映る俺は、あの未来の誰でも無い――今この時を生きている、今の俺。
一縷では無く無限の道を幾らでも選び取れる。
けして失くしてはならないものを両の掌から零れ落ちそうな程手にしている。

――そして、願うがままの未来を進む為の誓いをひとつ掌の中に増やして。



「……待っていて、“六花”。いつか必ず、迎えに行くから」